There is an ongoing heated debate on high school history textbook framework in Taiwan. One of the contested issues is for the description of comfort women, whether they were volunteers or were forced into service during the Pacific War.
Prostitution in Taiwan has never been a voluntary profession. This is a matter of course to all Taiwanese. In fact, folklores abound with heartbreaking tales of young ladies forced into it, sometimes by their own poverty-stricken heavily-in-debt parents. It is safe to say that no Taiwanese women would knowingly or willingly enter prostitution let alone one that serviced the military. What did transpire during the Pacific War was often the ignorance, promise of higher pay, and patriotism that had lured these naïve girls away from their families.
On July 14, 1999, a lawsuit against the Japanese Gov't seeking compensation for 9 Taiwanese Comfort Women was filed with the Tokyo District Court. One of the plaintiffs, a Ms Kao, was from Tamsui. For posterity, the entire complaint of Plaintiff Kao is quoted below.
A brief summary here: Ms Kao was born in Tamsui on Sept 17, 1921, whose father passed away when she was 3, and mother, when 15 years old. She worked as a washwoman and a seamstress as her mother did. And at age 15, she also sang at Gang-san-lao (a house of ill-repute) and lived with her sister's family.
On one visit to Town Office in 1938 - to enquire how to adopt a daughter in the future, Ms Kao, then 17 years old, noticed a man recruiting workers for the Japanese military stationed in Canton, "easy job with good pay". All together, 18 girls signed up, reported to duty at Taipei Station and left for Keelung to sail to Canton, China.
It was in Canton, the girls were utterly surprised to learn that they in fact had been recruited as comfort women. Much coercion then ensued.
In the next few years, Ms Kao traveled with the military to Singapore, deep in Burma and then Rangoon with no hopes of escape. In 1947, she ended up in Viet Nam waiting to be shipped back to Taiwan when all her worldly possession was confiscated by a "westerner" leaving only 5 dollars on her.
So, after 8 long years, totally broke, Ms Kao finally returned to Taiwan. Of the 18 girls started out, only 4 survived the war. She was eventually married and raised a family while trying to recover from the miserable wartime suffering to this day [note: 1999].
1999年7月14日、東京地方裁判所に提出
一 原告 高寶珠
1 招集される前の生活
一九二一年九月一七日に台湾省台北県淡水鎮で生まれ三歳の時
に父が、一五歳の時に母が亡くなっている。そのため、原告高は
幼い頃から母の洗濯や裁縫の仕事を手伝っていたので学校にはい
っていない。一五歳のころから江山楼という店で歌を歌う仕事を
しながら、結婚していた姉夫婦と一緒に生活し、姉の夫から実の
妹のようにかわいがられて平穏な生活をしていた。
2 徴集時の状況
(1) 一九三八年一七歳になったとき原告高は、将来のことを考え
養女をとったが、養女をとって間もないころ役所から原告高へ
の招集の通知がきた。
その通知には広東に行って日本軍のために働くようにという
指示と、集合場所と集合の日付が記載されてあるだけだった。
原告高は、どんな仕事をするのか役所に聞いたが、広東にいけ
ばわかると言われたのみで仕事の内容は教えられなかった。通
知を持ってきたのは以前から役所にいた「ほくろに毛」と呼ば
れる人物で集合場所の台北に原告高を送り届けている。
(2) 台北の駅には一八人くらいの女性が召集されており「ほくろ
に毛」の役所の人は基隆まで汽車に同行している。基隆からは
は船に乗って広東に送られた。
この頃、広東は第一回の戦闘が終わったばかりで原告高らが船
から外を覗くと死んだ人が海の中に浮かび、また広東についた
後トラックに乗せられ仏山というところに連れて行かれる間も
道に死体がたくさんあるのが見える状況であった。
3 「慰安婦」とされた時の状況
(1) 広東からトラックで到着したところは金山寺という場所で、
その場所には「慰安所」と書いた看板が掲げられてあった。
この看板を見て原告高ら女性たちは何をするのかわかり、泣
き悲しんだが、故郷から遠く引き離されかえる方法もなく頼る
先もなかったためにどうすることもできず、性行為を強制され
るという苦役に服さざるを得なかった。
(2) その後、軍隊の移動に伴われ、香港から陸軍の船でシンガポ
ールを経てビルマに連れて行かれた。途中原告高の乗った船が
潜水艦の攻撃を受け、原告高はその轟音で右の耳の聴力を失っ
ている。ビルマまでは三ヵ月ぐらいかかっている。
4 ビルマの「慰安所」での生活
(1) ビルマに着いてからは、軍隊のトラックに乗せられ山奥まで
連れて行かれた。そこには真新しい「慰安所」の建物が二棟建
てられてあった。台北に招集された一八人はここまでずっと一
緒であったが、原告高らの後から朝鮮から連れてこられた女性
たちも着いて、もう一棟の「慰安所」の建物で性行為を強制さ
れいていた。「慰安所」があった場所は、原始林の中で、兵隊
たちは三〇分かけて徒歩で通って来ていたが、原告高らは、女
性であり身支度もなく、戦争中で安全な道などないことから、
柵が無くとも逃げ出すことはできなかった。
食事も、軍隊から米・野菜を支給されて、原告高ら女性たち
が自分たちで作り、必要な買い物も兵隊に頼んでラシオやラン
カンで買ってきてもらうしかないという、外部とは隔絶された
監禁状態で、全生活を軍隊に支配されていた。この「慰安所」
を利用した部隊の名前はタツ部隊であった。
(2) 「慰安所」は、台湾のおばさんとお姉さんと呼んだ女性二人
と九州から来た日本人のおばさんと呼ばれる女性の三人で管理
していた。兵隊は二元、将校は四元払っていたが、女性たちに
は一〇日に一度清算して支払われていたが、原告高が留守宅に
送金した金銭は届いていなかった。身体検査は、日本の軍医が
月に三回位来ている。
土曜日曜は大勢の兵隊が来て特に酷使されていた。将校が夜
宴会を開くときにも動員されている。
5 ラングーンへの移動と慰安所での生活
更に、何年かして戦況が厳しくなった中、日本軍の駐屯地から
の撤退に伴い女性たちは幾つかのグループに分けられて、軍隊の
車に乗って移動し、原告高は約一日かかってラングーンに移され
た。賑やかな町であったが、新しく「慰安所」の建物が作られ、
原告高らはここでも日本人軍の兵隊の性処理の道具という苦役に
つかされている。
この場所も、日本軍専用の「慰安所」として運営されていた。
ここには一年から二年拘束されている。この「慰安所」に移され
たころには台湾から一緒だった一八人は七人か八人になっていた。
分かれた女性のなかには「タツ」部隊と一緒に山奥に移動した者
もいた。
6 敗戦と帰郷
原告高らは戦争が終わった後、憲兵にベトナムに行って船を待
てと指示され、憲兵隊の高官の指示でベトナムに移動している。
憲兵から通行許可証と腕章を与えられている。
原告高らはベトナムで船を待っている間に日本の許可証を持っ
ていたことから日本人と思われ抑留されそうになったが、台湾の
高官が中国人であることを説明したので抑留はされずに済んだ。
しかし、帰還船に乗船する際、西洋人が来て検査し、金や荷物を
取り上げたために原告高は、この時手元に五元だけ残して全財産
を失っている。
台湾には一九四七年に帰っている。原告高が召集の通知で台湾
を出てから八年も経っていた。台北に集められた一八人のうち帰
ったのは四人のみであった。一四人が命を失ったり、故郷に戻れ
ないままになっている。
7 帰郷後の生活
原告高は台湾に帰ったが、送金した金銭が留守宅に届いていな
かったりしたこともあり、また、せっかく縁組みをした養子も幼
いときに別れ、育てていないので親子の情がわかないままであっ
た。原告高は、酒家で働いたりした後、生活のために九人の子供
のいる男性と結婚したが、悲惨な体験を癒すすべもないまま今日
に至っている。